「何々元年」として大々的に宣伝した割には普及せず失敗扱いになることが結構ありますが、あまり元年スタートに拘らなくても良いのではないかというお話。
3Dテレビ元年!VR元年!最初にこだわって宣伝しても結局下火になって失敗扱いされてしまうのはあまりに不毛。元年は元号だけで良い
2018年ももう終わり、そして平成の時代ももうすぐ終わりを迎えて新しい元号となりますね。
平成が始まったのは1989年、日本では改元された最初の年を「元年(がんねん)」と呼びます。だから1989年は平成元年。
それにかけて比喩的に物事の大きな変わり目であったり、変革や新しいスタートを切るときには「なんとか元年」と呼ぶ事例が多くあります。
今回はなんとか元年とつくイメージ的なものについて考えていきましょう。
3Dテレビの失敗。元年を勢いや宣伝文句に使いたい思惑はわかるがユーザーが求めていなければ絶対に普及しない
まずここ数年で主にデジタル分野で見ただけでも、
- 3Dテレビ元年
- 4Kテレビ元年
- 電子書籍元年
- AR元年
- VR元年
- ドローン元年
- 仮想通貨元年
- AI元年
などなど、列挙していけばまだまだ出てきます。この時点で既に「いや元年使いすぎでしょ」と思ってしまうわけですが、物事には当然始まりがあるので元年が付くのはそのとおりではあるんです。
ただどうも「流行らせたい」「普及させたい」という思惑で元年連呼しているのが透けて見えてしまいます。上記にもありますが、特にここ数年で大失敗と言われているのは間違いなく「3Dテレビ」だったでしょう。
2010年頃でしょうか、テレビCMや評論家、メーカーに販売店などあらゆるところで「3Dテレビ元年」というフレーズを聞いたはずです。その背景には3Dで見られる映画「アバター」の大ヒットもあったわけですが……。
では今現在「3Dテレビ」という単語を出す人が周囲にどのくらいいるでしょうか。ほぼ居なくなりましたよね。それもそのはず肝心の3Dテレビ自体が絶滅したのです。
最後まで3Dテレビの生産を続けていたソニーとLGエレクトロニクスも2017年には3Dテレビの生産を終了させることを発表しました。この話題すらひっそりとしていて誰にも気付かれずに逝ってしまったなという感覚です。
3Dテレビが失敗した理由は、コンテンツ不足や専用メガネをかけないと見られず、そのメガネが高い。また、時期的に4K/8Kが控えていたことなど多岐に渡るのですが、結局のところ普及しなかったのは「そこまでして別に3Dで見なくても良い」というユーザーが大半だったからです。
英国のコンサルティング会社が2013年に発表したレポートでは、2017年に3Dテレビの1億5770万台の売上達成と、世界のテレビ販売台数の中で3Dテレビのシェアが58%にも上るだろうと予想していましたが、結果は180度違ったもので3Dテレビの終焉でした。なんとも皮肉なことです。
あれだけ莫大な広告費もかけて宣伝したであろう3Dテレビ元年の元号はもはや過去のものとなってしまったわけです。
必要なものは放っておいても勝手に普及するのだから別に「元年」に固執しなくても良いのではないか
ただ決して私は3Dテレビを馬鹿にしているわけではありません。あれは技術的にすごいものだと感じていますし、ゲーマーとしても3Dで映像が飛び出るNVIDIA 3D Visionなどには興味津々でした。
私が不満に思っているのはブームを作り出したい側が「元年」を連呼して、ユーザー側とミスマッチがあり思うようにいかなければ失敗だったと見なしてしまう流れについてです。
実際のところ後から元年を付けた感がありますが、Windows95の普及によって爆発的に広まった「インターネット元年」や、今では欠かせない存在の「スマートフォン元年」などもありますから元年とつけたらすべて失敗するわけではないのです。
しかしいちいち「元年」を付けなくても本当に必要なものや便利なものであれば、ユーザーがこぞって入手したがりますし、今の10万円近いスマホでも売れることからもわかるように欲しければ高くても買うのです。
そもそも昭和の時代では電子レンジ元年とかカセットテープ元年とかありませんでしたからね!
はじまりを大切にするための元年は良いのですが、過度なマーケティングのために乱用される元年は正直なくても良いのではないかと思う次第です。
ネット上でもよく「元年と付けると失敗する」などと揶揄されることがありますが、なんとか元年に辟易しているのはきっと私だけではないのでしょう。
また、そういう見方が広がってしまうと、せっかく記念としてつけた元年も技術やサービスのデメリットに作用してしまいます。
何事もはじまりの年は大事ですが、元年と表記するのはそれこそ元号だけで良いのかもしれませんね。
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